「ただ、水の泡にぞ似たりける。」
2017.06.13
いま読んでいる文庫本「教科書で出会った古文・漢文100」には、
お気に入りのものもいくつか収録されていて
そればかり何度も読み返しては遠くを眺めるを、繰り返しています。
行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れ(やけイ)てことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。
そのひとつでございます。
いまから、800年も前の昔々に紡がれたことばに心動かされ
何ら変わらないなあと思うのです。
解説には、
―方丈記の名は、住んだ京都郊外の庵に由来する。
方丈とは、一辺が一丈(約3メートル)四方の部屋のことである。
と書かれ、いっそそのくらい何もないほうが、清々するのかなあとも想うのでした。
ただ、水の泡にぞ似たりける。
ホーキング博士のことばにもありました。